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執行役員インタビュー第1弾 赤城 俊二(1)

2018年11月08日

「会社と人を知る」をテーマに、夢真ホールディングスの執行役員10人に対してインタビューを行う。トップバッターは、常務執行役員技術人材部部長 赤城 俊二。夢真ホールディングスのルーツから、2018年7月に発足の部署でこれから何を進めていくのか、また執行役員として今抱いている想いを聞いていく。前編となる今回は、7年間の技術者時代について聞いた。

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忘れられない「32年前の入社日」

 私は1986年に新卒の技術者として入社しました。社員番号が94ですので夢真の94人目の社員ということになります。当時の夢真は東京・池袋の古いマンションの一室にオフィスを構える「佐藤建築設計事務所」という小さな設計事務所でした。私は小学生の時から設計を志望していたので、就職する時点でその分野の知識もそれなりにあり、3年程度でいろいろな事務所を見て経験を積めればいいかと、同級生の友人と一緒に就職活動はさほど力を入れずに当社に決めました。
 そんないい加減な私は、入社初日から寝坊して午後出社する様なダメ人間でした。出社すると研修中でしたが、何故か面接で決まったはずの設計部の仕事には配属されないと、一緒に入社した友人から聞かされ、席に着く間もなく会った事もない当時の社長(現・会長)に文句を言いに行きました。そして、「遅刻してきてなんですが、設計部で働けないなら2人とも辞めます」と勝手に友人を巻き込んで言ったのです。私が逆の立場なら迷わず辞めて良いよと言ったと思いますが、当時の社長(現・会長)は「わかった、わかった、そっちで良いよ」と笑って答えてくれました。そんな対応に恩義を感じそこから私は別人のように働きました。

2つの業界初の取組 「海外作図」と「技術者派遣」

 入社してみると夢真は、社長のキャラクター通りのベンチャー企業でした。思い切った発想で新規事業に取組んでいきました。当時取り組んでいたうちの一つが海外での作図事業です。今でこそ当たり前の海外進出ですが、きっかけとなった1985年のプラザ合意の翌年でしたので、日本企業の海外進出が急激にしやすくなったタイミングでした。(プラザ合意とは為替レートを安定させるための合意です。それまで日本は1ドル360円で固定されていました。それがプラザ合意により変動するようになり、私が入社した年には160円位まで一気に円高が進みました。)

 当然社長はすぐに行動に移し、人件費の安さを求めて東南アジアに進出しました。今でこそPCソフトのCADを使って図面を書くことが出来ますが、当時はインターネットのない手書きの時代です。海外進出に際し、私も現地に通いました。情勢不安による暴動やクーデター、停電等も頻繁に起こる拠点もありましたし、資料を送るにも片道1週間かかるような状況です。そもそも地震のない国では建築自体の考え方も全く異なりました。しかも現地社員は日本語がわからず、電話で話すこともままなりません。そんな環境で書かせた図面は、当時の海外社員に責任はありませんが、残念ながら全く使い物になりませんでした。

 もう一つの事業が、現在行っている技術者派遣です。今でこそ当たり前の労働者派遣法ですが、丁度私が入社した1986年に施行され、出来たばかりの法律です。当時は「出向契約/請負契約/委託契約」等が主流で、他社から技術力を借りてくること自体、ある意味タブーのように考えられていました。それは、いわゆる匠の技などの技術は自社で伝承してゆくもので、一時的に来た人に教えることをあまり好ましく思われなかったのではないかと思います。

 そんな中でも夢真は設計事務所やゼネコンに人材を派遣し始めていました。私も入社して1年程度過ぎたころに、設計事務所に手伝いに行って欲しいと言われました。最初の方はなんとか乗り切っていましたが、その後、先に述べた海外作図図面に絡んだ業務が徐々に増え始めると、状況は変わっていきます。安く仕上げた海外作図図面を国内の技術者が仕上げるビジネスモデルは、現在の建設業界では定着したものになりましたが、その草創期だった当時は、日本の建設現場では受け入れづらいものでした。そんな図面を担当する事になった私は図面の修正やお客様対応に追われるようになり、「徹夜に次ぐ徹夜」といった感じで、今では笑い話として話せますが、当時はなかなか大変で、私のキャリアの中でも最も過酷な時期となりました。

【「執行役員インタビュー第1弾 赤城 俊二(2)」へ続く】